聖書メッセージ

聖書メッセージ

死と復活を予告する

「あなたがたは、わたしを何者だと言うのか?」弟子たちにイエス様が訊ねました。

それに対して、弟子の一人ペトロは答えました。

「あなたはメシア。生ける神の子です。」

 彼らの心には、イエス様をただの人ではないメシア、すなわち神が遣わした救い主である、と受け止める気持ちが生じていました。

そのときから、イエス様は、ご自分が必ずエルサレムに行って、ユダヤ人社会の指導者たちから苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められました。

 すると、ペトロはイエス様をわきにお連れして、いさめ始めたのです。

「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません!。」

 このペトロの反応は、人としてある意味当然であると言えましょう。

なぜなら、自分たちが尊敬して信じてついて来ているお方が、これから、そんなひどい目に遇うことなど、とても賛同して受け容れることなどできなかったのです。

 また、もう一つは彼らのイメージしていたメシア像とは、まったく異なっていたからです。

彼らが思い描いていた救い主とは、イスラエル人を異国(この場合ローマ帝国)の支配から救い出し、独立したイスラエル国を再建してくれる力強いヒーローのような存在でした。

 ところが、イエス様が示された未来のご自分の姿は、今風に言えば、警察に逮捕されて

拷問を受け、死刑に処せられるということなのですから。

ただ、その三日後には復活をするとは言っていますが…。

 しかし、そのペトロに対して、イエス様は言いました。

「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 サタンとは悪魔とも言い、神の敵対者のことです。

神の御言葉、神の御心、神の御計画をまったく意に介せず、ただ、自分たちの思い、判断

感情だけに、意を用いてゆくとき、わたしたちはいつの間にか神の邪魔をする者、神の敵対者となってしまうのです。しかし、その行き着く先は滅びなのです。

 さらにこう言いました。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」

十字架には象徴的な意味があります。まず、神の子を自らのエゴによって不当に殺害した

人間の罪です。そして、そのような罪深い人間の罪を贖った

エス様の自己犠牲の愛。さらに、十字架の死に至るまで父なる神を

信頼して従った信仰と、悪魔と死に対する勝利の印である復活です。

 キリストを信じて弟子となった者には、必ずその人用の十字架が

与えられます。それは受難です。しかし、それは私たちがキリストに

似たものとなる訓練のためであり、後には喜びに変わるものです。

マタイによる福音書16章21~28節

受け入れる人の報い

神はキリストを世に遣わし、キリストは弟子たちを世に遣わしました。

そして、世に遣わす前に弟子たちに言われたのです。

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。」

 キリストから遣わされた弟子は、様々な姿をとって私たちの前に遣わされます。

弟子とは、キリストを信じて従うすべてのクリスチャンのことですが、私の場合は書物を通して、私と出会いました。

 それも、人生のどん底の時に…。

進むべき道に迷い、罪責感や自己嫌悪、無力感、劣等感、絶望感などで一杯になり、鬱状態になっていつも自殺を考えるようになってしまったそんなどん底の時、三浦綾子と、カール・ヒルティというクリスチャン作家が書いた本を読み、そこに書かれていた「信仰」という私にとっては新しい概念を知り、また、そこに記されていた聖書の御言葉、

「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。」ヤコブの手紙5章13節

を読み、わらにもすがる思いで、彼らの証言と、その聖書の教えを信じて、心底からの悔い改めの祈りを捧げたとき、私は救われたのです。

目の前に見えない神がいると信じて、心底から祈ったところ、信仰というものに目が開かれ、生ける神の存在に触れられたのです。

それは、寒い冬の夜の暗闇のようだった私の内側に、暖かく明るい春の陽射しが、スーッ射し込んできて満ちてゆくような、世界が死から命へと移り変わったような体験でした。

 「あなたの罪は赦された。」との神の御言葉が、真剣に罪を悔い、赦しと救いを求めて

「神さま、ごめんなさい。赦してください。助けてください。」と祈っていた私の内に響きました。神が目の前にいると信じて、独り部屋の中で土下座して祈ったとき、私の精神的な背骨が、ボキッと折れたように感じました。それは、それまで何となく持っていた、つまらない自分のプライドのようなもの、あるいはケチな自我だったのかも知れません。

 そのとき、自分が探し求めていたものはこれだったのだ。悟り(?)、真理(?)を求めていたけれど、生ける神と出会うことがそれなのだ、と悟りました。

神がいることを悟りました。いや、悟ったなどというと語弊があります。もちろん自力で悟ったのではない。自分の能力で悟ったではない。ただ、神が憐れんで、ご自分の存在を現してくださったのです。そのときから、死への恐れはなくなりました。なぜなら、神という永遠の存在に触れたからです。

死への恐れは虚無に対する恐れではないでしょうか。しかし、その恐れは神という永遠の命に触れたときに消えてしまいます。

 また、そのとき、私はこの神を伝える仕事、つまり牧師になることを

決意しました。それによって、迷いの道から救い出されました。

 そして、その日から貧しい私も、キリストの弟子の端くれとして、

キリストの存在を伝えています。

 私を受け入れる人は、キリストを受け入れ、

キリストを受け入れる人は、天地を造られた神を受け入れるのです。

そして、その報いは永遠の命なのです。

マタイによる福音書10章40~42節

平和ではなく 剣を

 キリストが世に来られたのは、世に平和をもたらすためであると誰しもが思っていました。

そもそも、キリストとはギリシャ語で、ヘブライ語ではメシアといいますが、「救世主」

を表す名称です。

 世を救う救世主なら、世に平和をもたらすことこそ使命のはずです。

しかし、キリストは

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。

と言われたのです。

 これは一体どういう意味でしょうか。キリストは私たちを、家族の者と敵対させるために来た、とは。剣とはもちろん戦いのための武器のことですので、争いや戦いを象徴する言葉と言えます。また、剣は何かを断ち切るものでもあります。

 神を信じた時から、私たちがそれまで持っていた価値観や人生観などは大きく変わります。

そのとき、神を信じない人たちが持つ人生観、価値観との相違が生じるのは当然です。

そして、その違いによって、対立が起きるのもまた必然なのです。

 キリストは革命を起こすためにこの地上に来られたのです。

革命とはそれまでの古い社会構造や考え方、行動の仕方などが、根本的に急激に変革(革新)されることであり、あるいは発展することを意味します。

 しかし、革命時には必ず旧体制との新体制との間に、対立や争いが起きるのです。

それは、旧体制において、つまり、それまでの古い関係のなかで、安楽や、冨や、権力などの利益を得ていた人々が、世界が新しくなることによってそれらの利益を失うこと、に抵抗するために、対立や争いが起きるのです。

 

 過去に起きたフランス革命や、ロシア革命、日本の明治維新も一つの革命でしょう。

剣や銃によって多くの血が流されました。

また、生産の動力や手段が、牛馬の力や人間の手の技から、蒸気機関と機械に変わった産業革命が起きたときも、人々の中には、新しく導入された機械を打ち壊す人々もおりました。自分たちの職が奪われると考えたからです。

 

 家族であれ、国家であれ、神抜きの人間組織は、誤った相互依存を生み出し、互いの自由と成長と独立を阻害し、結局互いを不幸にします。

キリストを信じることによって、肉の親との見えない霊のへその緒は一旦断ち切られ

まことの父である神に霊はしっかりと結びつけられるのです。

キリストの御言葉は、私たちが広い視野と心を持つ人に成長してゆくため

私たちの偏見と偏愛を取り除く鋭いメスとなります。

また、それは血縁や人種をも超えた大きな神の家族となるための

一時的な創造的破壊なのです。

マタイによる福音書10章32~39節